2016年10月28日金曜日

2016.11.5 シンポジウム/特別支援教育10年目 ~学び・生活を支える「つながり」とは~


シンポジウム 特別支援教育10年目 ~学び・生活を支える「つながり」とは~
2016.11.5(土) 9:45~12:15 
札幌学院大学 D-302(D館3階)
参加費無料、申し込みの必要なし。

 2007年、法律の上で「特別支援教育」がスタートして、今年で10年目をむかえます。それまで障害児教育の対象となっていなかった通常の学級に在籍する「発達障害」等の子どもたちも特別支援教育の対象となりました。  
 この10年で「発達障害」の理解はずいぶんとすすみました。しかしながら、学校では「貧困」「虐待」「不登校」という課題が顕在化し、それへの対応に追われています。そのような中、文科省は「チーム学校」というキーワードを用い、心理の専門家や行政、福祉等で連携して問題解決を図ることを提案しています。私たちが積み上げてきた障害児教育では、今まであたりまえに思い、大切にしてきた視点です。「チーム学校」という考え方に対して様々な批判検討があることを踏まえつつ、このテーマ討論では、様々な立場の人が連携して、物事の解決にあたるために必要なことは何なのか。そもそも「連携」とは何なのか。
 生きづらさを抱える子どもたちを様々な形で支援している方々の実践をもとにして、「学び」「生活」を支えるための「つながり」を考えます。

コーディネーター:戸田竜也(北海道教育大学釧路校)

パネラー:杉野 建史(札幌自由が丘学園)
       田村 千波(江別市教育・道教委スクールソーシャルワーカー)
      卜部 洋子(札幌学院大学学生相談室・公立学校スクールカウンセラー)

2016年10月16日日曜日

『さつちゃんとなっちゃん』講演で紹介した絵本


 2016.10.16 帯広市「放課後児童支援員認定資格研修」にて紹介した絵本。
 浜田桂子作 『さっちゃんとなっちゃん』 教育画劇
 
さっちゃんとなっちゃん

 さっちゃんとなっちゃんは、大の仲良し。表紙をめくると「さっちゃんとなっちゃんはおとなりどうし。おまけにとしもおなじなの」という言葉から、お話は始まります。
 仲良しだけど全然似ていない二人。容姿はもちろん、朝ごはんで食べるものも、家族構成も、よく使うクレヨンの色や将来の夢だってまったく異なり、違うことだらけ人なのです。でもその二人の毎日は楽しそうで、違うからこそ仲良しなのかも…と感じられます。
 私たちの社会は、「違う」ことが排除される理由になったり、他者から同質化や均一化を求められたりすることが多くあります。でもちいさな二人は教えてくれます。「そっくりじゃないって、こんなに楽しい!」ってことを。

2016年10月8日土曜日

障害は自己責任なんだろうか?


 アニメーションの映画に「どんぐりの家」というのがある。上映開始は20年ほど前。我が母校・日本福祉大学では、近藤直子先生が大学祭に合わせて上映会を主催されたことを思い出す。のちに私は、ライブラリー版のVHSを購入し、たびたび授業で学生たちと見た。
 原作は、山本おさむ『どんぐりの家』(小学館)という漫画であり、実際に埼玉県毛呂山町に開設された「ふれあいの里・どんぐり」にかかわる実話がモデルになっている。

 この映画、後半は、聴覚障害のある子どもの親たちが「親亡きあと」を憂い、また学校卒業後の労働と居場所を確保するために、施設づくりの「運動」を展開する場面が描かれている。映画では、さらっと描かれるが、バザーや募金活動の他、資金集めの取り組みは、相当に過酷なものだったと想像する。

 映画上映から20年。この間、障害者福祉にかかわる法律が何度も変わった。障害者権利条約の批准も済んだ。以前から比べれば、いわゆる「福祉サービス」は質? 量? ともに? 充実してきたと語られる。また、社会の障害者に対する理解が広がり、差別意識も薄まってきたかに見える。

 しかし、この地域では、ほんの数年前まで「重症心身障害」の方たちが、学校卒業後に「通える場」は無かった。親たちが法人を立ち上げ、何千万という借金をして、「日中活動」の施設をつくって今に至る。
 そして借金返済の目途がつくかな…という最近、今度は「生活の場」であるグループホームやそれを支える居宅介護といった新たな事業が必要になってきた。地域にある既存のサービスは、重症心身障害の人たち(医療的ケアを必要とする人を含む)を対象としていなかったり、あったとしても家族が安心して利用できる内容・形態にはなっていないのである。

 いつの間にか親は高齢となり、身体の介助を含む「生活」をサポートすることに限界が来はじめている。
 そしてそれ以上に、明確な言葉として意思を表明することはないが、重症心身障害の人の立場に立つならば、その「声」を想像するならば…一人の青年・成人として「親から離れて、自分なりの生活をしてみたい」「家から出たい」と言う人もいるのではないだろうか。当然の要求である。
 
 「借金をしてでも、必要なサービスをつくるのが社会福祉法人の責任」と法人事務局長は言う。私も法人にかかわる人間の一人として、この言葉に賛同し、責任の一端を担う覚悟をする。

 一方、広く市民の福祉と生活を司る人(あえてぼやかすが…)にも、福祉サービスにかかわる「責任の一端」があるはずだが、それを理解しているようには思えない。
 言葉にはしないまでも、いまの対応は…まるで「障害は(家族を含む)自己責任だ」と言っているようだ。だって何もしない、丸投げだもの。しんどい本人と家族を放っているんだもの。

 子どもがどの地域に生まれるか…。これは偶然の所作である。どの地域で、どのような状態で生まれたとしても、健やかに育ち、居場所が確保されるように…。まだまだ自分が担うべき仕事はたくさんあるようである。

 老老介護の事件、人工透析に対するネット上での議論、そして憲法改正案?第24条、改正社会福祉法、その他の議論にふれながら、20年前の「どんぐりの家」を思い出し、休日出勤の朝にぼやいてみた。

 おしまい。

2016年10月6日木曜日

眠れぬままに朝…ツイートから


 眠れぬままに朝。地元紙を開くと学力テスト「平均超え」の記事。正答率も上昇。だが私は素直に喜べない。
 学力テストは、その前段階から一部の子どもを「学び」や「教室」から排除する作用を持つ。そして排除された子どもたちが「テストに参加しない」ことによって平均点を上げる「側面」を持つ。 教育関係者はよく知っている事柄である。
 私たち特別支援関係者が門外漢ながら学力テストに異議を唱えるのは、インクルージョンから逆行し、人権の基盤となる「学び」への意欲を子どもから奪うゆえである。
 公教育の役割から離れなぜ「悉皆」にこだわるのか。
 研究者としての立ち位置を確認した朝だった。